とりたてていうまでもないことなのだが
これも、当たり前と言われる範疇なのだけれど
人により自己の範囲が異なる場合があるということ
時と場合により又は、人により「私」と言った場合の私が意味する範囲が異なる場合があり、一定ではないと言うこと
(ここでの範疇は、通常の友人等との会話における、私の事であり、自己の所属する組織を代表した「私 」の事ではない)
自己が自個では無いひとたち
私と言った場合の自分の範囲は、ほとんどの人は、肉体の範囲と一致している
しかし中には、そうでは無いひともいる
人の生成過程やその後の意識の影響で、そのような人が生成される
人の生成過程で、肉体の次に意識というか、魂というか、考え方や生き方を考える部分が確定されるときに、その部分が緩くできてしまったり、同種の思考部品が重複してしまったり。
成長過程で、過度の自己逃避により、複数人格の状態になったり。
本人外から見ると、複数人格として認識できるが、本人は本人しか認識できない。
ただし、その複数人格は住みかとなる肉体は一つなので同時に表に出現できない。
この時の本人は、一つの人格者の自己認識の範囲とは異なる範囲を自己と認識することになる。(自己として認識できない部分についても、自己として認識するような感じ)(反対側から見た表現では、自分と同種の人は皆自分)
これは、肉体と人格が不整合な状態なので、その状態を維持するために必要となった思考。
良い、悪いではなく
じんかくのないひとびと
人核の無い人々
人類の進化の道のり
多重人格者の場合、現在の資本主義のルールのなかでは生きづらい
人類が人として賢くなり、種の保存を考慮する場合、新たな仕組みが必要となる