かんがえるいぜんのゆうせんじこう
考えるという意識的な行為の前の段階で優先的に判断されている事柄について
身体に備わる生命維持機能より優先度が低く
本能の次ぐらいに位置し
自信で、考える行為と認識できるかどうかの境界辺り
明確に考察し判断する行為よりも優先度が高いくらい(説明の都合上、“探意識界”での判断と仮に表現する)
そのあたりかな(考えの優先度としてのイメージ上の位置づけとして)
一つの例として
(地位や社会の中での位置づけ等の概念の中で生きている人々についてのお話)
本人の認識において、自己の能力と(自己の認識による)社会的な自己の位置づけに隔たり(自己能力の方が低い)がある場合、その位置づけの維持が、上記“探意識界”での最優先事項を処理する機能として起動し動作を開始する
この部分で処理された事柄が表現される場合、その部分は(外部から)同様な傾向として認識できる
現状の維持及び、現状の維持ができなくなる状況の破壊行為についての考察が常に働いているということ
全ての考えの元に、この判断が働いているが、本人でさえ自然のことなので認識できない
認識できないので、正しいとか正しくないとかの判断さえされない
たぶん、本人へそのことを伝えても、認識できないであろう
しかし、誤った判断を表現し続けている人は、その部分に問題があると思われる(明らかに、論理的に矛盾になる判断を繰り返す人とか)
そもそもの世界の捉え方を誤認識している人(注1)は、その誤認識した世界での維持が最優先事項となりその世界で生き、それ以外の世界は偽の世界となる(虚と認識)
世界をどのように認識しながら生きているのか?
その認識を元に、その世界で生きるためにに必要な最低限度の必要なことがらが、“探意識界”へ沈み込み本人の認識から外れ存在し機能している
(注1)
結局、世界(生きていく上で必要な外部認識)のイメージをどのように自身内部に構築しているのか
多様な認識ができ、多様な人々を受け入れ、多様な考えに理解を示して生きているのか?それとも、自己保身第一で、周りを虚否(虚と認識し、否定する)し、自己を肯定し続けているのか?などで、“探意識界”でどのような判断が妥当なのか構築され機能する
この部分の認識に大きな隔たりがある場合、認識の共有はあきらめた方がよい、それぞれの人生を費やし構築された人生観が異なるということなので、どちらが正しいなどと言って解決される問題ではない