よいいいわけとわるいいいわけ
良い言い訳と、悪い言い訳
言い訳:弁解、弁明、陳弁などの様々なニュアンスの表現があるが、ここでは、失敗をして怒られているときの状況と軽く考えることとする
言い訳の発現理由を2つに分けて考えてみると
1.その行為に至った思考過程の共有行為
2.自己の行為や判断を自分なりに正当化する行為
1.の場合は、自身にとっても、他者にとっても有用な情報となる
2.の場合は、個に閉じた世界の話しで、自身にとっては、ごまかしのスキル向上に貢献するのみ(周りの人にとっては、偽られる行為)
人の意識は、判断し行動した結果の記憶を元に構築される面があるので、2.の場合は、同様の行為を繰り返す事により向上とは無縁(低下/堕落)の方向へ進んでいることになる
正しい言い訳と、ごまかしの言い訳
ごまかしの言い訳止まりで、人として前へ進めない人々は、その行為にどのような価値を見いだしているのだろう
おもいつきで
思いつきで、混乱を広げるひと
思いつきで、平和を産むひと
ある面、思いつきかもしれないが、元となる思考のきっかけは一体何なのかと言うことをきちんと把握する必要がある
思いつきと言っても、自身の思考と何らかの関連性はあるわけで、当然、責任がともなう。
普段の認識範囲外(自身でも認識できない奥深く?)の思考を司る部分で、どんな考えが生み出されているのか?
その思考の種の属性は、善か悪か?
自責が元か、他責が元か?
論理的思考をつかさどる部分を素通りして表現される、言わばその人の本質
咄嗟の状況変化時に表現される意思も同様にその人の本質
本質のタイプ(判断時の重要度)が異なる場合、協調は無理
本質が同類の人びとでのグループが構築され、表現される(論理的に矛盾があるようなグループ構成かも知れないが、本質部分では、統一されている)
ごくふつうのこうどうにも
ごく普通の行動にもいろいろなものがあり
世の中の仕組みは良く(?)出来ていて、親切が服を着て歩いているような人がいるかと思えば、反対に、悪意が歩いているような人もいる訳で
親切な人が、自分がやっていることをわざわざ親切だと思わないのと同じように、
(当人にとっては)悪意無く、無理なく自然に悪意のある行動を繰り返している人もいる
何事も継続すると、慣れる場合があるが、悪行を継続した場合は、悪行のエキス(?)が、体に染み込んでしまうのか?
染み込むと、もう手がつけられなくなる
悪意が身体に染み込んでいる人は、自然に(良し悪しの判断無く)していても悪意が表現される
その段階になると、本人には全く悪意がない(染みこんでいるから単なる通常の生きるための行動をしているだけ)ので、「貴方には悪意がある」と当人に伝えても、理解できずにその言った人に、悪意があると思ってしまう。
理解不能:単にごく普通の行動をしているだけで、元々その行為を正当化する理由も無く、悪意無く行っている行為なので、言いがかりだと判断してしまう、
(親切な人に"親切にするな"と言っているようなもので、親切な人にとって理解できないのと同様に悪意がある人も理解できない)
そういう人がいると、その環境は、悪意のたまり場になる
(このような方々を指して、トラブルメーカーというのか?)
そういう方々と、意思の疎通が出来るようになったら影響を受けているということなので、要注意
"普通だ"と思っている事柄が、実は普通では無く、なれてしまっただけの事柄を普通だと勘違いするのは危険
常に自身の行動を吟味しより良い行動を心がけたい
あるひととないひとのあいだには
有る人と無い人の間には、
優越感という概念があるが、一体どこで、どのように、構築されたのか?
優越感を感じる人びとが、発端だと思われるが、
まあ、何の役にも立たない
存在理由が謎
しかし、
優越感を劣等感の反対の概念だと仮定して考えると
劣等感で生まれた凹みを埋める材料が優越感?
(劣等感も優越感も、個人で自己をどう思うのかという部分なので、とやかくいうことは無駄なのだけれど(論ずる価値がたぶん無い))
個人として、外界を認識するフィルター(外部の事実をどのように認識するのか?という部分)の癖があり、自己認識による自己像と、フィルター越しに認識する自己像の乖離状態に対する、一つの意識反応ではないかと
自己認識機能の不備若しくは、外界を見るフィルター性能の欠如等が原因か?
単に他者の意見を聞いて、自分の認識誤りを訂正すれば良いことなのだが(他者にどう思われているのか(他者の評価内容が正しいかどうかとは別の話し)という部分なので、あたりまえ)
また、自分で考える自分の評価がどうなのかという部分は、なんの役にも立たない
このような、何かを補うための欲求は終わりがない、人生の限りある時間を費やしても足りない
優越感とか、劣等感とかがある人とない人は、そもそも異なるのかも?
あくまにはみらいがない
悪魔には未来が無い
より正確に表現をすると、"悪魔"などの概念が存在する世界にまともな未来は無い
たぶん、自分のことを悪魔(と呼ばれるにふさわしい人間だ)と思う人は居ない
対外的に、自分の正しさ(や、正義感?)を補完するために、他者を悪魔と表現(悪魔呼ばわり)しているのなら、そのような概念(や、その概念の使い方)が存在している世界は、既に終わっている(未来を待つ間でもなく)
自己保全の為に、他者を利用しようと考える前に、自分をより向上させることを普通に考えた方が良い
考え方の違う個別のグルーブ間で、お互い他のグループをこけおろしているようなもの
己の行いのふびんささえ認識できない、その状況になっていることを認識することから始まる
人により都合のよい概念かも知れないが、あまりにも下らなすぎる
ただしさのしょうめい
正しさの証明
何が正しいのか?
何を持って正しいと言えるのか?
何が正しくないのか?
何を持って正しくないと言えるのか?
正しい事が良く分からなくても、正しくないことが分かれば、それでは無いことの中に正しさがあるのかも知れない
いったい何が正しくないのかは、その物事に関係する色々なことにより変わってくる場合がある
正しさはそれぞれの人が考え判断して、希求していき
その集まりとして、導かれるのかもしれない
(ただし、全ての人ではなく(俗に言う利己主義の方々は、その中でのみ追求して下さい))
正しくない物事の中にあるヒントを頼りに、正しい方向へ
人は過ちの行いをする、しかしその過ちを認め行いを改めることも出来る
改めることにより、正しさへ一歩近づく
ただしさへのみち
正しさへの道
数学の問題であれば、○○を証明するという問題の解にたどり着いたかどうかは、判断しやすいが、
日々の行動での正しさに対する解にたどり着くのは、なかなか難しい
日々の生活を正しさへたどり着く(探す)過程と考えれば、今日より明日、少し正しさへ近づければ良いかなと思える
人生を、正しさへたどり着く旅路だと仮定すると、途中遠回りしたり、休んだりすることも大切なこと
人一人の生きた道に応じて、正しさが構築されていく
それぞれの人々の、それぞれの正しさの集まりとしての正しさを次へ伝えていければ、少しずつ近づける
移ろいゆく正しさを探し求めながら